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Posted by さがファンブログ事務局 at

2011年11月25日

わかめの海

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・家族・・・1 


他のホテル旅館にも少しずつ自分で作るアクセサリーを置いて行ったが順調に売れ始めた。

ちょうどこのころ、母の体調がすぐれず入院。

はっきりした原因がつかめず入院治療が数週間続いた。

このころ家族は父母と私の三人家族だったので、母の入院中は私が炊事洗濯掃除をすることになった。

父は大正生まれの典型的な日本男児で家事は一切母に任せて“男子厨房に入らず”の人たったので勢い私がすることになった。

掃除と洗濯はあまり苦にはならなかったが、炊事が苦手だ。

ただ、学生時代に自炊を少ししていたので父よりはましな程度。

毎朝みそ汁だけは欠かさず作った。

いりこだしをとって、とうふ・ねぎ・ジャガイモ等々具を変えシジミ汁も作った。

あるとき、乾燥わかめをさくさくと切って鍋に放り込んだ。

蓋をあけてびっくり。

鍋の中はわかめの海。

このとき乾燥わかめがこれほどまでに膨張することを始めて知った。  


Posted by 青風 at 09:01Comments(0)●職人の営業奮戦記

2011年11月26日

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・家族・・・2 


一か月近く経っても母の容体は改善せず、むしろだんだんひどくなっていくような気がした。

病院に相談しても明確な説明はない。

母の兄弟や私の兄弟も心配し病院を変えてみたらどうかということになり、思い切って退院させ、他の大きな病院に検査入院させた。

このころは一旦入院するとなかなか他の病院へ移るのは難しかったので結構勇気がいることだった。

検査入院一週間後結果が出た。

父と私は看護婦さんから病院の一室に案内され、レントゲン写真を見ながら先生の説明を聞いた。

胆のう癌だ。

しかも、余命半年から1年と言い渡された。

私はそれを聞いた後の先生の言葉はほとんど耳に入らなかった。

父が熱心に何かを聞いていることは記憶がある。

先生と話し合った結果、このころは癌の告知は本人にはしないのがほとんどだったので、私たちも告知はしないことにした。

病室に行ったが母の顔をまともに見ることができない。

父がもっともらしい嘘を言っていた。

まわりから「なぜもっと早く・・」と聞こえてきたが、父と私が最もそれを思っていた。
  
タグ :伊万里


Posted by 青風 at 12:32Comments(0)●職人の営業奮戦記

2011年11月28日

結婚ばしてくれんね

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・家族・・・3 


薬物投与による延命治療が始まった。

夜は父と私が交代で看病。

4人部屋のベッドの横に布団を敷いて、いつでも対応できるように泊まり込んでいた。

私が眠り込むときがあるので私の手首に紐を巻き、用があるときは母がその紐を引っ張って起こしてもらうことに。

母は愚痴一つこぼさず病気のことも全く聞こうとしなかった。

病室に行くと柔かくにっこりほほ笑んで言葉はあまりない。

私も、癌のことは知らせていないので話題を選びながらの、ポツリポツリの会話をした。

しかし、同じ部屋で癌の手術をして治療を受けている人がいたので、おそらく感じていたのだろう。

少ない会話の中で、母は私に「うちが生きとる間に結婚ばしてくれんね」と何度も繰り返し言った。

優しい看護婦さんがいると「あがん人の嫁さんに来てくれたらよかね」と。

私は「またそれを言う。もう聞き飽きたばい」とつっけんどんに言い放った。

しかし、内心では何とかできればと思ってはいた。
  


Posted by 青風 at 13:22Comments(0)●職人の営業奮戦記

2011年11月29日

夫婦とはそういうものか

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・家族・・・4 


薬物による副作用が出てかなり苦しそうだったが、それでもじっと耐えて何かに当たるとか、唸り声を出すということはなかった。

そんな母を見ていると、何をどうしていいか分からず戸惑うばかり。

ある日母が「父ちゃんはまだ来らっさんとね?」と言うから、

「なんか用事でもあると?」と聞くと、

「そいぎよか」という。

しばらくして、顔が歪みだした。

「どがんしたと。先生ば呼ぼうか」と言うと

母が「うんこしたかとばってん父ちゃんの来らしてからよか」と。

私は「なんば言うとね、おいは母ちゃんの腹から生まれて来たとばい。気使かわんでよか」とすこし語気をつよめて叱るように言った。

母はすまなさそうに用を足して、自分でお尻が拭ける状態でもなかったので私が拭かせてもらった。

「すまないねぇ」と言うから

「あやまらんでよか」とまた語気を強めてしまった。

しかし、息子から下の世話をしてもらう事の複雑な思いはその時は理解してなかった。

ただ、このとき夫婦とはそういうものかと深く思った。
  
タグ :夫婦伊万里


Posted by 青風 at 08:48Comments(0)●職人の営業奮戦記

2011年11月30日

見放されたように感じた

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・家族・・・5 


薬の投与も終わり少しずつ元気が出てきて、泊まり込んでの看病はしなくてもいいようになった。

作品づくりの時間がとれるようになり失敗を繰り返しながらも色々な物が作れるようになって、おもしろくてたまらない。

営業マンの時は味わったことのない充実感と喜びが毎日続いた。

病院に行くと母が仕事のことを聞いてきた。

独立するときも窯を購入する時も猛反対していて母だったが、あるとき知り合いのおばさんからこんな話を聞いた。

「あんたのお母さんから、焼き物はいらんね?と言われたばい。独立して焼き物屋しよるてねぇ。あんたのお母さんも一生懸命ばい」と。

私には一言も言わないで蔭では応援してくれていたのだ。

母らしい。

仕事は順調であることを伝えると安心した様子で、取りとめもない世間話をした。

ときが経ち退院して自宅療養することになったのだが、退院の日に先生から「今度入院するときは近くの病院でいいですよ。看病もその方が楽でしょう」。

先生にとっては当たり前のことを普通におっしゃったのでしょうが、何となく見放されたように感じてしまった。
  
タグ :家族伊万里


Posted by 青風 at 08:26Comments(0)●職人の営業奮戦記

2011年12月01日

プロポーズ

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・家族・・・6 


自宅に帰ってからは体調も良く家事を一切してくれて助かった。

少し落ち着いたころ親戚からも私の結婚のことをよく言われるようになった。

実はそのころ付き合って間もない女性がいて、結婚の申し込みをこのような時期にしていいものかどうか迷っていた。

母のことは癌と診断されたときに話していて、その後も心の支えになってくれていた。

迷った結果、言ってみてだめならしょうがないと腹をくくって思い切って「結婚しようか」とプロポーズした。

“案ずるより産むが易し”で「よかよ」とすぐに返事をしてくれた。これが現在の妻。

本人同士の意思が固まったら、回りの動きが素早く、先ずは私があいさつに行き、たいして時間を置くことなく結納の日取りを決めるなど、めまぐるしく動いていった。

結納の日に結婚式の日にちを決め、プロポーズから4カ月余りで式を迎えた。
  


Posted by 青風 at 08:07Comments(0)●職人の営業奮戦記

2011年12月02日

孫が出来るまでは

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・家族・・・7 


結婚式の2週間くらい前から母の体調がすぐれず近くの病院に再入院した。

式にはなんとか出席できるようになるのではと期待したが、周りと母の強い願いにも関わらず身体の方が動かず出席がかなわなかった。

式と披露宴が終わると同時に妻と二人で病院に報告に行き病室のドアを開けたら、よわよわしいながらもにこやかに心から嬉しそうに迎えてくれ、「おめでとう。良かった良かった」と繰り返した。

式での出来事を一通り話し終わると、「今度は孫の顔ば見たかね。そいまでは死なれんね」と。

これまでは私が結婚するまではと生きる力を振り絞ってきたが、今度は孫が出来るまでとその生きる希望を持ったようだった。

幸いにだんだんと体調を取り戻し自宅での療養ができるようになり退院した。

大方の家事は妻がしてくれたので母はゆっくりと養生ができかなり元気を取り戻した。

神様や仏様に祈りをささげ癌が治った話はよくあるが、何かを信じ希望を持つことで体内の細胞が活性化し癌細胞をやっつけてしまうのだろうと、このとき実感した。  
タグ :伊万里


Posted by 青風 at 08:29Comments(0)●職人の営業奮戦記

2011年12月03日

別れ

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・家族・・・8 


6月に結婚し翌年の春に子供を宿ったことが分かり、家族は大喜び。

母が最も喜んだ。

その喜び様を見て、私も妻も嬉しさとともにどことなくほっとした。

このころの母は元気で本当に病気が治ったのではないかと思うくらい行動範囲も広く、妻も色々と教えてもらっていた。

俗に言う嫁姑の問題もなく家庭は平和な日々。

そんな中で、真夏を過ぎたころ、私の長男が生まれてきてくれた。

私は仕事の都合で出産のときは傍にいてやられなく、そのことで今でも妻には頭が上がらない。

母が元気な時に生まれてきてくれたのでとにかく喜んでくれた。


しかし、そのころは床に居る時が少し長くなっていた。

父母も病院に見舞いに行き孫の顔を見て顔がほころんでいたのを昨日のことのように思い出す。

妻は退院し実家で産後の養生をすることに。

実家は車で15分程度と近かったので私は毎日通うことができて子供の顔をみるとその日の疲れが吹き飛ぶようだった。

ある日、母が突然、どうしても孫の顔を見たいと言い出したので、急きょ連れて帰ることに。

母のベッドに一緒に寝せて母がいとおしそうに何度も何度も孫の頭をなで、「よう来たね・・よう来たね」と涙を浮かべていた。

安心したようにゆっくりと孫をベッドに横たえて、母も寝入ったようだった。


しかし、その日の夕方容体が急変し緊急入院。

ICUに入り酸素マスクをしていたが苦しそうに息が荒い。

親戚に連絡を取った。

家族親戚で母のベッドを囲んで苦しそうな母をどうすることも出来ずに見守った。

夜中を過ぎ明け方、急に母が身体を起こし何やらわけのわからない声を発した。

それから息が小さくなり30分も経ったろうか、父が大きな声で「おいっ!ハルコ!おいっ!ハルコ!」と呼びかけたが母からの返事はなく安らかに永遠の眠りに就いた。

享年61歳。

孫が生まれて19日目。

癌の宣告をうけて2年を過ぎていた。  
タグ :別れ伊万里


Posted by 青風 at 09:15Comments(0)●職人の営業奮戦記

2011年12月07日

明日のふるさとを考える

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・仕事とボランティア・・・1 


母が亡くなった昭和59年には、毎日新聞社が応募していた「毎日郷土提言賞」の論文の部に応募し佐賀県代表に選ばれた。

この論文は自分の仕事にも絡めた内容の論文だったので、私の仕事に反対していた母もこれにはすごく喜んでくれた。

毎日新聞社が明日のふるさとを考える為ということで公募したもので、私はイマリという世界に知られている名称を利用しファッションと絡めた街づくりを提言した。



概略は新聞掲載記事の通りですが、もしお時間でもありましたら全文をアップしていますのでお読み頂ければ幸いです。
論文「ファッションタウン伊万里」
http://www.tatikawa.com/craftsman/essay.pdf (pdf形式)  


Posted by 青風 at 09:23Comments(0)●職人の営業奮戦記

2011年12月14日

伊万里レンゲの会発足

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・仕事とボランティア・・・2 


この年の秋に「伊万里レンゲの会」を友達数人と発足。

きっかけとなったのは、友達の大学時代の教授が伊万里に来られた際に私も一緒に飲むことになり三人は意気投合。

その中での話に日本レンゲの会というのがあり長野県、千葉県、岐阜県でレンゲを使った地域起こしをやっている話を聞いた。

レンゲ草で土をよみがえらせ、人の人情を豊かにしようと言うもの。

秋に田んぼにレンゲを蒔いて、春にそのレンゲ畑でイベントを行い故郷を楽しむ。

当時(30年前)もすでにレンゲ草は田んぼから消えつつあったのでなつかしい光景だった。

私が幼いころは春にはレンゲ畑と菜の花畑がパッチワークのように一面を彩り壮大で見事な風景が広がっていた。

レンゲ畑で転がって遊んでは大人から叱られ懲りずにまた遊びまた叱られる。

女の子はレンゲで首飾りや王冠を作って大人になった気分でオシャレを気取っていた。

  


Posted by 青風 at 09:44Comments(0)●職人の営業奮戦記

2011年12月16日

決断して10日

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・仕事とボランティア・・・3 


飲んでいる間に話はとんとん拍子に進み、その場でやると決断。

お会いしている教授は日本レンゲの会の会長だったので、会長が伊万里に居る間に記者発表しようとなった。

しかし、会員が2名ではまずいだろうと、友達数人に電話をして了解をとった。

そして、新聞記者に電話し翌日の午前11時に2社の記者に来て頂くことができた。

数日後朝日新聞が大きく取り上げてくれた。

自分たちの周りの人十数人に協力を得て無事レンゲの種まきは終わった。

決断してわずか10日間での早業。

独立した時のようにここでも無鉄砲です。

  


Posted by 青風 at 08:45Comments(0)●職人の営業奮戦記

2012年03月01日

私は生きていましたよ

2ヶ月間の休養を頂きましたので、元気になりました。

春3月を期にブログを再開させて頂きます。

昨年末から書き始めた「仕事とボランティア」の続きを明日から書いていきたいと思います。

実は、今年還暦を迎えるにあたり、2月の3日に伊万里神社で歳男の豆まきをしてきました。そのとき、ある人から「ブログ楽しみに読んでいたのに最近どうしたの?」と言われていまして、一人でも楽しみに読んで頂いている人がいてくれることは本当に幸せなことだと心から思っています。

では、明日からよろしくお願いします

  

Posted by 青風 at 14:46Comments(0)●職人の営業奮戦記

2012年03月02日

レンゲ草で遊ぶ

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・仕事とボランティア・・・4 


秋に蒔いたレンゲは冬を越し翌年の春には可憐な花が田んぼを埋め尽くす。

そこで何をするか種まき後にメンバーで何回も何回も集まって話し合った。

自分たちが子供のころレンゲ畑で体験した遊びを、今の子供たちに体験してもらうことになり、保育園生を招いてレンゲの花束やレンゲの王冠を作って遊んでもらうことに。

また、レンゲ畑コンサートと称して園児たちにレンゲ草の中で歌を歌ってもらった。締めくくりにレンゲ畑綱引き。

それはそれは子供たちは大喜びです。






ここに写っている子供たちは現在は30歳を超えていると思います。
ご本人やご家族さんがご覧になっていたらコメントください。
写真を差し上げます。  
タグ :レンゲ草


Posted by 青風 at 09:02Comments(0)●職人の営業奮戦記

2016年10月07日

テレビショッピングについて・・・ その①

2015年度テレビショッピング上位30社の売上が約5200億円超。1位がジュピターショップチャンネル(JSC)、2位がQVCジャパン,3位がジャパネットたかた。大手は順調に売り上げを伸ばしているようです。
私の作品を販売していただいているのは1位のJSC社です。
JSCは住友商事が出資しているショッピング専門チャンネルで24時間365日生放送で色々な商品を販売しています。

実は、私はショップチャンネルの名前だけは知っていたのですが、専門で24時間生放送で販売しているとは取引するまでは知りませんでした。
  

Posted by 青風 at 17:08Comments(0)●職人の営業奮戦記

2016年10月08日

テレビショッピングについて・・・ その② ショップチャンネルのすごさ

ショップチャンネルについては住友商事のHPに詳しく載っていますが、少し抜粋して案内します。
―――――――――――――――――――――――――――――
「ショップチャンネル」では1つの商品について30分から1時間かけてその商品の特長やこだわりをじっくり紹介するが、番組に台本はない。

コールセンターは東京250席、大阪110席自社で運営しており、平均コール数は1日約8万コール。午前0時からはその日のゴールデンタイム。

1週間のオンエアで紹介される商品は約700点。すべて社内バイヤーが日本全国・世界中から自分で見つけ出し、買い付けてきたもの。バイヤーやプランナー、編成担当や番組制作担当の各スタッフが何カ月もかけて入念に打ち合わせる。

「ショップチャンネル」を視聴可能な環境にある世帯は日本の半数以上。
大規模な専用物流センターを同じ住友商事グループの住商グローバル・ロジスティクスとともに構築。
海外への事業展開を進めている。
                            (住友商事HPより抜粋)
―――――――――――――――――――――――――――――
このように大きな会社でどのような経緯で販売できるようになったのか・・・
  

Posted by 青風 at 16:31Comments(0)●職人の営業奮戦記

2016年10月12日

テレビショッピングについて・・・その③ 売上0円

工房に一本の電話があり、息子が受話器を取った。

しばらくやり取りをした後「テレビでうちの商品ば売りたからしかばい」「〇日に来るてばい」
私は「どうせ売れんとに、来てもしょうがなかとにね」「ばってん、勝手に来らすとならよかたい」と軽く流した。

実は、このような営業電話は10年以上前からかかってきていたが基本的に電話営業には取り合わないようにしていた。


しかし、5年ほど前にあまりに熱心に電話やメールで営業をかけてくるので、話だけでも聞いてみようかと、時間を取った。

当然のことながら「ぜったい売れますよ」と売れる理由を並べてきた。

最初は「売れるわけないだろう」と思っていた気持ちが、だんだんと「もしかしたら売れるかも」と心が動かされた。

ひとしきり話を聞いて、「とりあえず検討します」と日にちを置いて心を落ち着かせるようにした。
数日後、電話がかかってきて、担当の熱心さもあってやってみることにした。

3分弱の動画を繰り返し放映するというものだったが・・・・・・・・結果は売上0円
  

Posted by 青風 at 19:18Comments(0)●職人の営業奮戦記

2016年10月14日

テレビショッピングについて・・・その④ 営業マン来店

売り上げ0円という苦い経験から、その後は営業電話がいくらかかってきても一切耳を傾けることはなかった。
そんな中で、どうしても出てきて話をしたいということでしたので「勝手にどうぞ」という気持ちでした。

息子が電話を切った後、相手が名乗った会社をネットで調べたところ営業に来る人はショップチャンネルのバイヤーではなく、ある大手のダイヤモンドの会社(上場企業)のようだった。

このとき私は「本当にこの会社だろうか」「同じ会社名かも?」と半分疑っていた。

かくして約束の日が来て決めた時間通りの来店。お決まりの挨拶と名刺交換が終了。

ダイヤモンドを扱っているのだから、ジュエリーの似合うバリバリの営業マンを想像していたが、かなり想像とは違って、物腰が柔らかでどこにでもいるような壮年でカリスマ性は感じなっかた。
  

Posted by 青風 at 17:20Comments(0)●職人の営業奮戦記

2016年10月17日

テレビショッピングについて・・・その⑤ 只者ではない営業マン

ショールーム内の作品を少し説明をしながら見てもらった。

当方のオリジナル技法を説明しているとき反応があまりなかった。これまで工房を訪ねてきてくれた人はほとんどが、「へーっ」と驚かれるのですがそうではなかった。

私は内心「この人何にも分かってないのでは?」と少しいぶかった。


一通り見終わって、いよいよ本題に。

彼は、分厚い鞄の中からどさっと資料を机の上に乗せて広げ始めた。見ていると見覚えのあるパンフレットや写真が出てきた。

「これは十数年前に北九州のデパートで立川さんが展示会をされた時のパンフレットです」「これはその時のデパートのチラシです」「ここら辺はサイトをコピーしたものです」と次から次へと並べていった。

その中にこの写真はどこにあったのだろうと思うのが有ったので「これは何処に?」と尋ねたら「立川さんのブログからです」と。

私は「えつ!」と息を呑んだ。

「立川さんのブログ全部読ませてもらいました」「PTAも熱心にされていたようですね」「職人の営業奮戦記感動しました」等々矢継ぎ早にブログの内容を聞かされた。
  

Posted by 青風 at 20:36Comments(0)●職人の営業奮戦記

2016年10月18日

テレビショッピングについて・・・その⑥ まだ続く只者ではない営業マン

まだ、鞄の中から出てきた。なんとそれは焼き物に関する書物数冊。

「焼き物の勉強もさせてもらいました」
「なかなか理解できないところがたくさんあります」と。

いきなり、ここが分からない、あそこが分からないと質問が始まった。質問も的を射たもので本当に勉強していることが分かった。

私のオリジナル技法はすでに勉強済みだったので驚きがなかったのです。

さっきまでの私の疑いの心は消え去った。

当方の作品を売りたいと来てくれる人はありがたいことに度々ある。しかし、ブログまで読んでくる営業マンは初めてだった。

私の心は鷲づかみにされた感があったが、まだ冷静だった。
それというのも、先に述べたようにTVショッピング0円の経験があったからだ。


さて、そろそろ本題に入らなければならない。
  

Posted by 青風 at 20:29Comments(0)●職人の営業奮戦記

2016年10月24日

テレビショッピングについて・・・その⑦ いよいよ本題

熱心に伊万里焼のことや私のことについて事前勉強して来ていることはよくわかった。
しかし、問題なのは条件。

私は「そろそろ本題に入りましょうか」と促した。

営業マン(m氏)は、はっと我に返ったように「そうですね」と本題に入っていった。

m氏は
「私どもはSCとは何年も前から取引がありまして、ダイヤモンドを中心に販売しています」
「SCでは長い方です」
「SCさんに立川さんのことを話したら是非とも、売りたいと言っています」
「今日はSCさんに是非行って交渉して来てくれと頼まれて来ました」
「SCさんはTVショップではナンバーワンの売り上げを誇っています」
「そこが、是非売りたいと自信をもって言っています」
「私も絶対売れると思っています」

私は
「そんなに簡単に売れるもんですか」
「私の作品はオンリーワンなだけに、お客様に内容をよく知っていただいて、納得してもらうのが難しいですよ」
と、これまでに失敗した例を挙げて簡単に売れないことを説いた。

するとm氏は
「よく分かります」
「だから、私たちは1時間番組を作って売ろうと考えています」
「その中で、立川さんがどのような思いで作品を作っているか、作品にはどんな特徴があるか、或いは伊万里焼の歴史なども入れて丁寧に説明して売っていきます」
と、自信満々の答えが返ってきた。

私が挙げた、売れなかった理由は、すごく当然のことと涼しい顔をしていた。

この、「丁寧に説明して売っていく」という言葉は私には説得力があった。実際デパートなどでの販売でも、外商の人に事前に丁寧に説明していただいていると売れていたからだ。
  

Posted by 青風 at 06:33Comments(0)●職人の営業奮戦記