新年のご挨拶

新年のご挨拶をまだしていませんでしたので・・・

謹んで寒中のお見舞いを申し上げます。


今年もよろしくお願いします。



来年になりそう

続きは来年になりそうです。

皆様・・良い年をお迎えください。

立川荒雄

決断して10日

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・仕事とボランティア・・・3 


飲んでいる間に話はとんとん拍子に進み、その場でやると決断。

お会いしている教授は日本レンゲの会の会長だったので、会長が伊万里に居る間に記者発表しようとなった。

しかし、会員が2名ではまずいだろうと、友達数人に電話をして了解をとった。

そして、新聞記者に電話し翌日の午前11時に2社の記者に来て頂くことができた。

数日後朝日新聞が大きく取り上げてくれた。

自分たちの周りの人十数人に協力を得て無事レンゲの種まきは終わった。

決断してわずか10日間での早業。

独立した時のようにここでも無鉄砲です。



伊万里レンゲの会発足

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・仕事とボランティア・・・2 


この年の秋に「伊万里レンゲの会」を友達数人と発足。

きっかけとなったのは、友達の大学時代の教授が伊万里に来られた際に私も一緒に飲むことになり三人は意気投合。

その中での話に日本レンゲの会というのがあり長野県、千葉県、岐阜県でレンゲを使った地域起こしをやっている話を聞いた。

レンゲ草で土をよみがえらせ、人の人情を豊かにしようと言うもの。

秋に田んぼにレンゲを蒔いて、春にそのレンゲ畑でイベントを行い故郷を楽しむ。

当時(30年前)もすでにレンゲ草は田んぼから消えつつあったのでなつかしい光景だった。

私が幼いころは春にはレンゲ畑と菜の花畑がパッチワークのように一面を彩り壮大で見事な風景が広がっていた。

レンゲ畑で転がって遊んでは大人から叱られ懲りずにまた遊びまた叱られる。

女の子はレンゲで首飾りや王冠を作って大人になった気分でオシャレを気取っていた。



明日のふるさとを考える

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・仕事とボランティア・・・1 


母が亡くなった昭和59年には、毎日新聞社が応募していた「毎日郷土提言賞」の論文の部に応募し佐賀県代表に選ばれた。

この論文は自分の仕事にも絡めた内容の論文だったので、私の仕事に反対していた母もこれにはすごく喜んでくれた。

毎日新聞社が明日のふるさとを考える為ということで公募したもので、私はイマリという世界に知られている名称を利用しファッションと絡めた街づくりを提言した。



概略は新聞掲載記事の通りですが、もしお時間でもありましたら全文をアップしていますのでお読み頂ければ幸いです。
論文「ファッションタウン伊万里」
http://www.tatikawa.com/craftsman/essay.pdf (pdf形式)

別れ

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・家族・・・8 


6月に結婚し翌年の春に子供を宿ったことが分かり、家族は大喜び。

母が最も喜んだ。

その喜び様を見て、私も妻も嬉しさとともにどことなくほっとした。

このころの母は元気で本当に病気が治ったのではないかと思うくらい行動範囲も広く、妻も色々と教えてもらっていた。

俗に言う嫁姑の問題もなく家庭は平和な日々。

そんな中で、真夏を過ぎたころ、私の長男が生まれてきてくれた。

私は仕事の都合で出産のときは傍にいてやられなく、そのことで今でも妻には頭が上がらない。

母が元気な時に生まれてきてくれたのでとにかく喜んでくれた。


しかし、そのころは床に居る時が少し長くなっていた。

父母も病院に見舞いに行き孫の顔を見て顔がほころんでいたのを昨日のことのように思い出す。

妻は退院し実家で産後の養生をすることに。

実家は車で15分程度と近かったので私は毎日通うことができて子供の顔をみるとその日の疲れが吹き飛ぶようだった。

ある日、母が突然、どうしても孫の顔を見たいと言い出したので、急きょ連れて帰ることに。

母のベッドに一緒に寝せて母がいとおしそうに何度も何度も孫の頭をなで、「よう来たね・・よう来たね」と涙を浮かべていた。

安心したようにゆっくりと孫をベッドに横たえて、母も寝入ったようだった。


しかし、その日の夕方容体が急変し緊急入院。

ICUに入り酸素マスクをしていたが苦しそうに息が荒い。

親戚に連絡を取った。

家族親戚で母のベッドを囲んで苦しそうな母をどうすることも出来ずに見守った。

夜中を過ぎ明け方、急に母が身体を起こし何やらわけのわからない声を発した。

それから息が小さくなり30分も経ったろうか、父が大きな声で「おいっ!ハルコ!おいっ!ハルコ!」と呼びかけたが母からの返事はなく安らかに永遠の眠りに就いた。

享年61歳。

孫が生まれて19日目。

癌の宣告をうけて2年を過ぎていた。
タグ :別れ伊万里

孫が出来るまでは

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・家族・・・7 


結婚式の2週間くらい前から母の体調がすぐれず近くの病院に再入院した。

式にはなんとか出席できるようになるのではと期待したが、周りと母の強い願いにも関わらず身体の方が動かず出席がかなわなかった。

式と披露宴が終わると同時に妻と二人で病院に報告に行き病室のドアを開けたら、よわよわしいながらもにこやかに心から嬉しそうに迎えてくれ、「おめでとう。良かった良かった」と繰り返した。

式での出来事を一通り話し終わると、「今度は孫の顔ば見たかね。そいまでは死なれんね」と。

これまでは私が結婚するまではと生きる力を振り絞ってきたが、今度は孫が出来るまでとその生きる希望を持ったようだった。

幸いにだんだんと体調を取り戻し自宅での療養ができるようになり退院した。

大方の家事は妻がしてくれたので母はゆっくりと養生ができかなり元気を取り戻した。

神様や仏様に祈りをささげ癌が治った話はよくあるが、何かを信じ希望を持つことで体内の細胞が活性化し癌細胞をやっつけてしまうのだろうと、このとき実感した。
タグ :伊万里

プロポーズ

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・家族・・・6 


自宅に帰ってからは体調も良く家事を一切してくれて助かった。

少し落ち着いたころ親戚からも私の結婚のことをよく言われるようになった。

実はそのころ付き合って間もない女性がいて、結婚の申し込みをこのような時期にしていいものかどうか迷っていた。

母のことは癌と診断されたときに話していて、その後も心の支えになってくれていた。

迷った結果、言ってみてだめならしょうがないと腹をくくって思い切って「結婚しようか」とプロポーズした。

“案ずるより産むが易し”で「よかよ」とすぐに返事をしてくれた。これが現在の妻。

本人同士の意思が固まったら、回りの動きが素早く、先ずは私があいさつに行き、たいして時間を置くことなく結納の日取りを決めるなど、めまぐるしく動いていった。

結納の日に結婚式の日にちを決め、プロポーズから4カ月余りで式を迎えた。


見放されたように感じた

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・家族・・・5 


薬の投与も終わり少しずつ元気が出てきて、泊まり込んでの看病はしなくてもいいようになった。

作品づくりの時間がとれるようになり失敗を繰り返しながらも色々な物が作れるようになって、おもしろくてたまらない。

営業マンの時は味わったことのない充実感と喜びが毎日続いた。

病院に行くと母が仕事のことを聞いてきた。

独立するときも窯を購入する時も猛反対していて母だったが、あるとき知り合いのおばさんからこんな話を聞いた。

「あんたのお母さんから、焼き物はいらんね?と言われたばい。独立して焼き物屋しよるてねぇ。あんたのお母さんも一生懸命ばい」と。

私には一言も言わないで蔭では応援してくれていたのだ。

母らしい。

仕事は順調であることを伝えると安心した様子で、取りとめもない世間話をした。

ときが経ち退院して自宅療養することになったのだが、退院の日に先生から「今度入院するときは近くの病院でいいですよ。看病もその方が楽でしょう」。

先生にとっては当たり前のことを普通におっしゃったのでしょうが、何となく見放されたように感じてしまった。

タグ :家族伊万里

夫婦とはそういうものか

ーーー独立30周年を記念して綴っています。ーーー
 
【職人の営業奮戦記】(2)
・・・家族・・・4 


薬物による副作用が出てかなり苦しそうだったが、それでもじっと耐えて何かに当たるとか、唸り声を出すということはなかった。

そんな母を見ていると、何をどうしていいか分からず戸惑うばかり。

ある日母が「父ちゃんはまだ来らっさんとね?」と言うから、

「なんか用事でもあると?」と聞くと、

「そいぎよか」という。

しばらくして、顔が歪みだした。

「どがんしたと。先生ば呼ぼうか」と言うと

母が「うんこしたかとばってん父ちゃんの来らしてからよか」と。

私は「なんば言うとね、おいは母ちゃんの腹から生まれて来たとばい。気使かわんでよか」とすこし語気をつよめて叱るように言った。

母はすまなさそうに用を足して、自分でお尻が拭ける状態でもなかったので私が拭かせてもらった。

「すまないねぇ」と言うから

「あやまらんでよか」とまた語気を強めてしまった。

しかし、息子から下の世話をしてもらう事の複雑な思いはその時は理解してなかった。

ただ、このとき夫婦とはそういうものかと深く思った。

タグ :夫婦伊万里